スローショッピングという言葉を聞いたことがありますか。
昨年の11月に日経新聞で初めてこの取り組みを知りました。
軽度認知症だった父と、ゆっくり歩いて買い物に行った時のことを思い出し、とても感動しました。
介護サービスを利用するご本人、そしてご家族にとっても素晴らしい取り組みだと思います。
そこでスローショッピングとは何か、日本の現状と課題についてまとめてみました。
スローショッピングとは
認知症の人や高齢者のための優先レジを設置し、列の後ろから急かされることなく安心して買い物を楽しめるようにする取り組みです。
スローショッピングのはじまり
スローショッピングを始めたのは、英国のスーパーマーケット、Sainsbury’s(セインズベリーズ)です。2016年に、ニューカッスル・アポン・タインにあるゴスフォース店で、英国内のスーパーマーケットとして初めてスローショッピングを試験導入しました。
毎週火曜日の午後1時から3時までと時間を決め、希望者には入り口から店内を案内するスタッフが付き添います。各通路の両端にイスを設置し、店内2カ所の問い合わせ所でフルーツやビスケットの試食を提供しました。
このスローショッピングの取り組みは、キャサリン・ベーノさんが提案しました。
べーノさんの母親は、ショッピングが大好きでしたが、認知症症状の悪化につれてスーパーでの買い物を断念せざるを得なくなりました。
彼女は、母親が亡くなった後、スローショッピングというアイデアを思いつきました。これは、買い物にもっと時間をかけたい人のために、居心地がよく安全な環境を提供するというものです。
ゴスフォース店の副店長スコット・マクマホンさんも、ガンを患った父親の買い物に付き添った体験を持ち、スローショッピングに共感しました。
ゴスフォース店でスローショッピングが始まった理由は、ベーノさんの熱意、お店側の共感という面もありますが、もう1つは改装などの大きな負担がかからなかったことも一因です。
買い物スペースのなかに休憩できる椅子を置く、玄関においた黒いマットを外す(認知症の人にとって穴に見えることがある)等手近なところから環境を改善しました。
キャサリン・ベーノさんは、現在SlowShoppingという団体を運営しています。
日本でも始まったスローショッピング
国内でも2017年(平成29年)から、京都府宇治市の「コープ宇治神明」が、「ゆっくりレジ」を始めました。
日本でスローショッピングが広まるきっかけを作ったのが、岩手県滝沢市のスーパー「マイヤ滝沢店」です。こちらは2019年7月に始まりました。
この活動の中心になったのは、認知症専門医の紺野敏昭医師です。紺野医師は地域医療に携わる中で、この取り組みを発案しました。
具体的に取り組んだことは以下のとおりです。
1.店内掲示、サインの変更
文字からイラストへ、認識しやすい色、大きさ、サインの表示位置も視野に合わせて下げました。
「マイヤ滝沢店」のサインは8回ほどやり直してようやく完成したものです。誰でも見分けのつきやすい色のパターンを使うことを意識し、隣接する他のサインと同系色にならないように区別しています。

令和4年1月27日岩手県長寿社会課発行「ちいきで包む」より抜粋
2.パートナー制度
家族や店員とは別に、ボランティアの方が認知症の人と一緒に買い物をする支援者として付き添います。県職員OBのパートナーが中心となりこの活動を支えています。
3.スローレジ
ゆっくりと支払いができる優先レジを設置しています
4.くつろぎサロン
買い物の合間に家族の方が休憩できるスペースを提供しています。これは単なる休憩スペースではなく、紺野先生をはじめ、クリニックの看護師や市包括、市社協の職員が交替で待機します。高齢者が買い物に回っている間、家族はサロンに残り、介護から一息つくことができ、専門職を前に日頃の悩みや愚痴を話し、体調や制度について相談することもできます。家族介護支援の相談窓口という大事な役割も担っています。
2019年に始まったマイヤ滝沢店のスローショッピングは、週1回木曜日の午後1時から3時に継続的に実施されました。2022年1月の段階で既に、100回以上の実施実績があります。
この取り組みは、医師会、行政、スーパー、地域住民の連携によって支えられており、認知症の人が自信を取り戻し、地域社会に参加する機会を提供しています。スーパーマーケットが高齢者専用のレジを作るだけの話ではありません。
スローショッピングを始めた紺野先生はかねてから、認知症患者の積極的な診断・治療や、早期からの介護サービス利用の推進、認知症の正しい知識の普及などに取り組まれ、「やまぼうしネットワーク」の中核的存在として活躍されていました。
紺野先生は日常の診療の中で、認知症患者がかなり早い段階から買い物に行かなくなること、患者本人に聞いてみると買い物はしてみたいけれど、行かなくなった背景には「カイケイの壁」があることに気づいたこと、この2つが取組のきっかけだといいます。
マイヤ滝沢店のマネージャー辻野氏も、この取り組みは大きな意味があると考え、現在でもスローショッピングを続けています。
しかし、スローショッピングができる、ということを店舗側として大々的なアピールはしませんでした。認知症の方、高齢者、障害者でも「誰でも対応可能」ということがオープンになると、お客様に過大な期待を持たせてしまうからです。
この取り組みは、令和元年度の「第3回認知症とともに生きるまち大賞」(NHK厚生文化事業団)ニューウェーブ賞(特別賞)受賞、令和2年度「サービス産業強化事業費補助金(認知症共生社会に向けた製品・サービスの効果検証事業)」(経済産業省)の採択などを通じて、次第に全国に知られるようになりました。
日本のスローショッピングの現状
大きくPRしていないにもかかわらず、この取り組みは静かな反響を呼び、少しずつ全国各地に広がっています。
岩手県滝沢市 | 2019年からスローショッピングを開始した先駆的な地域です。既に100回を超えるスローショッピングの実績があります。 |
岩手県陸前高田市 | アバッセたかたで2021年7月から実施 |
岩手県盛岡市 | 2022年2月上旬からマイヤ仙北店で実施 |
福岡県行橋市 | 2020年7月から「ゆめタウン南行橋店」で高齢者や障がいのある人が慌てずゆっくりと支払いができる「スローレジ」の取り組みを開始しました。ゆめタウンを運営する「イズミ」(広島市)は、南行橋店の取り組みを受けて、スローレジの実施店を増やしました。店によってやり方は異なるものの、中国地方や九州などにある64の大型店舗全てに広がったという。 |
福井県福井市 | 2021年7月から福井県民生活協同組合は、高齢者に優しい店づくりの一環として、7月から全10店舗でスローレジ「ゆっくりレーン」を設置した。 |
横浜市栄区 | 2024年4月から政令市初の取り組みとして、イトーヨーカドー桂台店でスローショッピングを始めました。月1回(毎月第3水曜日)の実施です。 |
鳥取県倉吉市 | 2024年7月に全国初のコンビニでのスローショッピング体験会を実施しました。 |
岩手県滝沢市に見るスローショッピングのメリット
スローショッピングの取り組みは、ご利用者やご利用者家族にどのような影響を与えたのでしょうか。
2024年3月に、みずほリサーチ&テクノロジーズ株式会社が協力し、「スローショッピング・パートナー活動」の効果検証をしています。スローショッピングを行ったグループ(介入群)と未利用グループ(対照群)に分けて、アンケートを行いその調査結果をまとめました。


「WHO精神的健康状態表」の結果から、認知症の人が、スローショッピングを利用することで、精神的健康状態の向上に有意傾向がみられた(10%水準の有意差)という結果を得ています。
しかしメリットはこれだけではありません。
認知症家族のコミュニティー
紺野医師の発案で、認知症当事者や家族同士のつながりや相談の場としてのサロンを設けようということになったとき、マイヤ滝沢店では、イートインコーナーをスローショッピングの時間に使えるように提供しました。
認知症の方はパートナーと買い物に向かい、その間家族はサロンに残って、関係者と相談をしたりしています。参加者は単に買い物を楽しむだけではなく、なじみの顔ぶれと会話することも大きな楽しみになっているとのことです。
新たなビジネスモデル
マイヤ滝沢店のマネージャー辻野氏は、「スーパーマーケットは高度成長期の消費モデルで成り立ってきた業種」であり「この取組はビジネスモデルとして優れている」と話されています。
ネットスーパーやEC、宅配の利便性が向上する中、店舗で買い物をする回数は減っています。金額べースで見ても、身近なスーパーでの購入額は、実感として以前よりも減っています。
スローショッピングという取り組みは、認知症というだけで買い物に出かけることをためらう高齢者層をつなぎとめる役割を果たしています。
スローショッピングの課題
岩手県滝沢市のスーパーマイヤの事例を参考に、スローショッピングを始めるにあたって想定される課題をまとめてみました。
認知症への理解
「マイヤ滝沢店」でスローショッピングを始めるにあたって、店員の方の認知症への理解を深める必要がありました。そのため、各自治体で行っている認知症サポーター養成講座を受講してもらうことにしました。認知症サポーター養成講座は認知症に関する正しい知識や接し方を学ぶ講座で、受講資格や試験等はありません。講座の修了するとオレンジ色のブレスレット「オレンジリング」が渡されるものです。
しかし、講座を実施するタイミングや講座を開催する場所がない等の問題が大きく、「マイヤ滝沢店」では、開始までに時間がかかった模様です。結局、内容や時間帯を分け、店員の負担にならない形で進めました。
コスト
売り場やサインを変更するのに、費用がかかります。
「マイヤ滝沢店」では、売り場や床のサインを、商品の場所をわかりやすく示すように色分けし、また、トイレの案内を改善するのに1店舗100万円、カートにアクリル板を取り付けて、売り場案内図を取り付けるのに、1店舗5台で10万円の費用がかかりました。
サロンを併設する場合は、ある程度まとまった広さを持つスペースの確保が必要になります。
専門家の支援
「マイヤ滝沢店」では、当初から紺野先生のような専門家が中心になって始めることができましたが、他の地域で同様の取り組みを始めるにあたって、相談に乗ってくれる専門医や専門職の協力が得られるかは非常に重要です。
利用者の交通手段
「マイヤ滝沢店」で、最大の課題として挙げられたのが、店舗までの移動手段です。現在は、週1回の開催で、利用者も限られており、店舗までの移動は家族の送迎で対応しています。
利用者を増やしてゆきたいとは思っても、対象者や実施日が増えると、独居の方や、家族の都合で送迎が難しい方がいることが想定されます。
タクシーを利用するにも、家から連れ出して送り届ける役割を考えると、介護タクシー等ある程度技術を持った方にお願いしなくてはなりません。一回に認知症の方が買い物する金額も、決して高くはありません。結局、どこまで店側が送迎の利用料を負担できるのかが課題になっています。
まとめ
このように、認知症の方とその家族の方には大きなメリットが多数あることは判りましたが、事業者側における負担がそれなりにあることがわかります。
岩手県滝沢市のスーパーマイヤの事例では、補助金を活用してサインや掲示版の改修を行っています。
また、利用者を増やす、実施する事業者を支えるという2つの意味でも、店までのアクセスの確保は大きな課題と言えます。買い物や通院などの移動支援は、一部の地域において、買い物ツアーや住民間の助け合いによるもの、デマンドタクシーなど、地域事情に応じた多様な手段が提供されています。
このように、スローショッピングは「時間帯限定の高齢者優先レジ」を置くだけの取組ではなく、店舗全体、医療・介護を含めた地域全体で、認知症の人をどう支えていくかという「まちづくり」の一環として、関係者が連携して進める意味のある取り組みと言えます。
最後に、スローショッピングという取り組みが注目されるのは、単に「買い物が好き」だからという単純な理由ではないと思います。
買い物というのは、高齢者にとって「自己決定ができる」場です。
「生活環境と幸福感に関するインターネット調査」(2018年2月8日~2018年2月13日)の国内約2万人のアンケート結果によれば、幸福感に与える影響力を比較したところ、健康、人間関係に次ぐ要因として、所得、学歴よりも「自己決定」が強い影響を与えることが分かりました。
もともと国連の世界幸福度報告書によれば、経済力の割には日本の幸福度はそれほど高くなく、「人生の選択の自由」が低い傾向があります。
そういう社会だからこそ、日常のショッピングという小さな事であっても自己決定ができる機会が多い人の方が、自立度も高く、幸福度も高くなります。
自分の眼で見て、モノを選んで他人と会話しながら買い物を楽しむというのは認知症の高齢者にとっては、筋力を維持する運動、認知機能の維持のために、ぜひ続けていただきたい試みです。
今後もこのような新しい取り組みはどんどん出てくると思います。このような新たな情報を届けていきたいと思いますのでご興味のある方はこちらからメルマガ登録をお願いします。
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